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感受性は創作活動・暴力(ハラスメント)の力の源だ 『燃えあがる緑の木』(大江健三郎)を読む

    2019年9月、NHKEテレの 『100分de名著』で、大江健三郎の著書『燃えあがる緑の木』が取り上げられました。この作品は一人ひとりの感受性との向き合い方を示す作品でもあり、HSP、LGBTQ+、ハラスメントなど、多様性や感受性が注目される今だからこそ、この作品を深める意義があると私は感じています。この作品には、自分の内側の感受性に集中する力を高めて、他者の感受性にも注意を傾けてほしいというメッセージがあり、暴力とはどのように生まれるのかの提示がされ、あらゆる創作活動をする人や、少数派として活動する人への応援が込められています。

 

www.nhk.or.jp

 

   私が紹介するこの作品のテーマは、

の三つです。今回は、注いだ時間の長さがそのまま成果につながるのか、神様や信仰を必要としない祈りの姿があるのか、という点も踏まえて書きました。カッコ内には参考文献のページを載せて、最後には文字を書く人にお勧めする出演者のコメントを載せました。それでは、ポイントを絞って作品を紹介します。 ※参考文献とコメントは、クリックすると該当部分にジャンプできます。

 

① 集中を続けた結果、何かが形として現れる。 -創作活動をする人へ-

 物語の舞台はある農村の教会です。教会と名前はついていますが、神様は設定されておらず、聖書のような祈りの言葉もなければ、統一された目的もありません。参加者は「集中」という、瞑想・マインドフルネスを行っています。そこでの 「集中」 は自由参加・自由退席可能であり、どのくらいの時間をかけるのかも各個人の自由です。登場人物であるギー兄さんは、集中は、日常生活の中の「一瞬よりはいくらか長く続く間」への感受性を高めてくれると語ります。これはざっくりと言えば いい感じ” を感じとる力であり、友人とのおしゃべり、ペットとのふれあい、感動するドラマを観ることなど、過ごす時間の中で喜びを得る力と言えます。そして、信号が赤から青に変わるくらいの短い間でも いい感じ” を感じとり、目の当たりにした感覚に注意を注ぐことが大切だというのです。

 

 自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? (第一部 p.172)

 

 集中は芸術家の創作活動に通じるものがあります。芸術家は、作品を作る時には、感覚に集中して“より良い作品の姿”をイメ―ジし、それに向けて現在の目の前の物を変化させていきます。その過程は1回毎に集中を積み重ねる行為であり、文章を推敲するように、その結果はぐにゃぐにゃと形を変えながら、ある形に集まってきます。そうして作り手が集中を続けた結果が、目の前の作品として現れているのです。作品に引用されるアイルランドの詩人シモーヌ=ヴェイユは「祈りの質は、注意力の質と深くかかわっている」、「注意力は最も純粋な祈りのかたちである」と言っています。つまり、教会での祈りとは、一人ひとりの想う対象に注意を傾けることであり、創作活動における集中は、祈りと同様のものであると捉えることができます。その行為には、特定の神様や宗教に基づいた信仰は必ずしも必要ではないのです。

 

 ギリシア語を訳したり、幾何の問題を解いたりする際に養われた注意力が、やがて祈る際に役立つ、という。その点はいいとして、その確かさを保証する仕方がさ……  信じているようにふるまわなければ、この確かさは経験できない、と彼女はいって、それが一種の矛盾だとは認めるんだがな、しかしその矛盾を肯定しようとするわけ。 (第三部 p.77)

 

 集中の結果あらわしたものは、必ずしもすべてが受け入れられて納得されるものではなく、社会の中でどのように位置付けられるのかは分からないというのです。そこで示されているのが「言い張る」という態度です。これは、たとえ一度の結果が思わしくなくても、学習や創作活動で身につけた集中力は、次の何かを生むときには活かすことができ、イメージした結果を次こそは生み出せると、想い続ける力です。この力の源は、自分自身の感受性を意識的に感じ続けることにあり、作中ではその方法の一つとして、教会での「集中」が描かれています。

 

 私は、この「言い張る」態度は、他者に押し付けるものではなく信念として持つ、自分自身に言い聞かせる、という解釈が必要だと考えています。他者に自分の感受性を押し付ける時、それは暴力 (ハラスメント) に変わるのです。

 

② 暴力 (ハラスメント) と救い主の発見         -暴力を感じた人へ-

  作者は一人ひとりの感受性が暴力の源になることを描き、誰もが暴力を内側に秘めているものだとします。作中では暴力を発揮する時の昂揚感が書かれます。

 私は自分が揮った暴力が陋劣なものだと考えたけれども悔いも自己嫌悪も感じなかった。 (中略) 私はじつに久しぶりに暴力的な自分を解放しえた昂揚感を抱いていた。 (中略) 「転換」がそれまでの遊び仲間の若者らの悪ふざけやいじめを招かなかったのは、かつての私が仲間うちでも粗暴さできわだつ者であったからなのに。(第三部 p.111)

 

自分のなかの悪・醜さを棄てたくなることがある、嘔吐するように(第三部p.116)

 

 暴力は、悪いレッテルを貼り付けるなどして、嫌なものを相手に移し植えるものであり、その力の源は、加害者の感受性にあるというのです。善悪/快不快/白黒と、一見分かりやすい対立したレッテルを相手に与えて、自分自身の内側の葛藤を減らすのです。番組の出演者は、スッキリしない感情の処理の仕方について、このようにコメントします。

 矛盾するものが同時にここにある。 (中略)  AかBかじゃない、白か黒じゃない。白も黒も両方同時に違うものが共存することを肯定する。 (中略) つまり正解がない状態に耐えうる (中略) 矛盾するものを同時に一つの存在の中に受け入れることが、寛容さにつながってくるんじゃないか。 / 最初こいつが悪者だと思ってたんだけど、どうやらこっちの方が悪者で、元々悪者だったものが今度100%良いもんだって言い出すじゃないですか。それは違うよ。 (放送第2回)

 

 矛盾する二極がともにあるという考え方は、『燃えあがる緑の木』というタイトルにも現れています。これはアイルランドの詩人イェーツの詩 (第Ⅰ部p223) から作者が引用したものです。1本の木の片方はきらめいて燃え、もう片方は露に濡れて豊かに茂っている』このイメージは自己と他者の感受性のせめぎ合い、内に燃える理想と目の前の状況、あるいは暴力からの回復のメタファーであると読み取れます。この二律背反は、男性と女性両方の器官をもつサッチャンが物語の語り手であることをはじめ、小説の中では繰り返して提示されます。

 

 実社会で、目に見えにくく、どこかには居るだろう理解できない人たちを“虐げられても仕方のない人、悪者、役立たない人”とレッテルを貼って切り捨てるのは、感受性から生まれる暴力です。そして、暴力は容易に昂揚感や一体感をもたらしてくれますが、大波のように異質なものを排除する力にもなります。多数派、権力側、長いものの側につく処世術の強力さを人は感じとって、暴力 (ハラスメント) の加害者や傍観者となって、同じ場所に長く残り続けようとするのです。その長さを思うとクラクラしますし憤りを強く感じますが、本当に人生に刻まれる喜びや意義をもたらしてくれるものは充実した感覚に満たされた “いい感じ” を得た経験であり、決して長さそのものではないのです。

 

     森の中の明るい道,新緑

 暴力 (ハラスメント) を受けたとき、他者がレッテルとして押し付けてくるイメージと、より良く在ろうとする自分のイメージがせめぎあい、自己イメージは揺れ動きます。作品では、その迷いと揺らぎの中で、苦し紛れに声を上げるときに救い主と出会う様子が書かれます。その存在は自身の感受性を再発見させてくれ、より良い自分の姿のイメージを再構築するきっかけを与えてくれるものであると言えます。自分の内側の痛みと葛藤に集中した後、私オリジナルに発見して受け入れた「救い主たち」と関わる。その結果として、体験を語り自分の感受性を外側に現すことは自由であり、これが救い主だと発信することも自由なのです。そして、感受性に基づいて、より良いイメージはこうだと「言い張る」ことを続ける力は、暴力に対抗して活動を続ける原動力になるのです。

 

③ 信念を引き継ぎ、不十分な実力でもやる  -すべての少数派の人へ-

 登場人物のギー兄さんは、村人の一部から人智を超えた治癒能力を引き継ぐ人物であると、認識されるようになります。本人はその能力に疑問をもつつも、信念をもって活動を続け、その後の様々な結果が描かれます。

 

 その死んでゆく人に対して、私が語りかけたいと願うのは、 (中略) 自分のいのちよりも、あなたのいのちが大切だと私は思う、ということなのだ。(第二部 p277)

 私自身、人を治療する力が自分にあるのかどうか、アヤフヤに感じていた。アヤフヤなままに、私が指と掌で治療しようとしたカジは死んだ。一方、登君は恢復した、松男さんも手遅れになることをまぬがれた、しかしかれらが治ったのも、私にとっては、アヤフヤな進み行きにおいてであった。それで私は、生き延びた登君と松男さんが癒された者の確信において伝導してゆくことに、留保条件を出そうとは思わない。(第三部 pp.255-256)

 

 効果や実力がアヤフヤだという迷いの中で、行動を継続することができるのは、相手のより良い変化に喜びを感じようとする態度があるからだと読み取れます。相手の感受性に注意を傾けるとき、「あなたはどのように感じるのですか」と問いかける言葉や身体の動き、表情が生まれます。その問いかけは、短い間の出来事だったとしても いい感じ につながる体験として相手の人生に刻まれ、相手の感受性に基づいて解釈されて、相手の行動を変化させるのです。つまり、感受性に注意を傾けることは、持っている信念を、次の人そのまた次の人へと交わし合い、列を成すように未来につなげる行動なのです。相手の感受性を大事にするという信念を、それぞれに解釈をして未来へ繋ごうとする人達が集う場所、それが作中での「燃えあがる緑の木の教会」なのです。

 われわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体の中の個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んでいった人の個も含まれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。 (第二部 pp.264-265)

 

 自分は永く生きないが、それは相対的な問題だ。とくに私は、自分という死者と共に生きて、繋いでくれる人たちの存在をすでに感じとっているから。私はその自分をさらに後から来る人に繋いでくれる者によって、列の妥当な位置におさめられるだろう。「死者と共に生きよ」という教えを生き方の根本におく者たちの列。つまりそれを私たちは「燃えあがる緑の木」の教会と呼んでいるのだ…… (第三部 p.337)

 

 人生に喜びとして刻まれる体験を得ようとするならば、暴力の大波から抜け出して、一滴の水をもたらすように、相手一人の感受性に注意を傾けることが大事であると、作品では示されています。それを実社会で実践しようとするなら、それはかならず小数での歩みになり、多くの揺らぎがあります。その揺らぎの中で、出会った救い主によって自分が支えられていると感じるとき、自分もまた救い主の信念を引き継ぐ者の一人であり、さらには、自分がより良く在ることが、逆に救い主を支えていることにもなるのです。相手の感受性に注意を傾け続ける力は、ハッキリと目には見えなくても、自分の命の限りを超えて、未来に実りをもたらすものとして続いていくのです。

  一滴の水  一粒の麦

 暴力 (ハラスメント) を目の当たりにして立ち止まり、そこから先に進もうとするなら、まずは内側の葛藤に集中した結果として、目の当たりにした体験を外に現すことで、自分の感受性をもう一度肯定することが大事です。そして、より良い私・他者・社会のイメージを持ち続け、別の新しい対象に向けて注意を傾けることで、加わるべき人の列につながることができると作者は書いています。 

 

 実際に組織を抜けて新しい職場を探す時も、既に上手い人がいる状況で創作活動を始める時も、迷いの中で自分の性別を選択する時も、不十分な実力でどっちつかずの中途半端な自分の状態を認めつつ、自身の感受性に基づいたより良いイメージを持って、これをやると信念をもって言い張る力が、人生をたくましく生きる力になるのです。

 

 作者は、この長編小説の最後にRejoice!(喜びを抱け) と書いて締めくくります。この言葉は、私たち一人ひとりに対して、自分の内側の感受性に集中する力を高めて、他者の感受性にも同様に注意を傾けてほしいというメッセージであり、あらゆる創作活動をする人達への応援であると読み取れます。そして、作者に息子の光さんがいるからこそ、少数派の人達を含めて共存できる社会を創りたいという強い思いが込められていると、私は考えました。

 

 

さいごに:番組出演者が書き手を応援する言葉

 番組の中で、文章を書き続ける人に対して、出演者が力強いコメントをしてくれましたので、ここに紹介します。

 「自分の魂について考える、そのよすがになってくれた文学作品の、自分を助けてくれたところをまとめたら、福音書になる  /  間違っているかもしれないけれど、俺はこういうふうに読んだと言い張るっていう読み方をまずしていい」  伊集院光  (放送第2回)

 

 「自分がこういう風にして生きてきて、自分の人生のこういう時期にこの作品に出会った時に、自分にはこの作品がこのようにしか読めない、自分はこのように読んだ  /  読みってのは自由なんですよ」    小野正嗣先生  (放送第2回)

 

 この小説に興味が湧いて、理解を深めたいと思った方は、はじめに触れるのは、100分de名著とNHKテキストがお勧めです。大江健三郎の作品を初めて知る人にも、とっつきやすい内容です。小説を最後まで読み終わったとき、作品をもっと面白く感じられるので、ぜひ最後まで読んでみてください。

 

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 

< 参考文献 

・大江健三郎『燃えあがる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで』新潮文庫1998.1

・大江健三郎『燃えあがる緑の木 第二部  揺れ動く(ヴァシレーション)』新潮文庫1998.2

・大江健三郎『燃えあがる緑の木 第三部  大いなる日に』新潮文庫1998.10

・小野正嗣『100分de名著 -大江健三郎 燃えあがる緑の木-』NHKテキスト2019.9

・『100分de名著 大江健三郎 “燃えあがる緑の木”第2回  世界文学の水脈とつながる』NHKEテレ2019.9.11放送