自閉症という言葉は、もともとは医療用語でした。
この、「閉」という漢字の見た目のインパクトは、「んっ?少し気になる」という微妙なニュアンスに当てはめるには、すこしキツ過ぎる気がします。「力を込めて、反抗心から、頑なに」閉じているというイメージがついています。
私は、もしかすると、「開きすぎている」ことが「閉じている(ように見える)」ことの出発点ではないか?という可能性を考えています。
1.自閉症(autism)が「閉じている」と誰が言った?
自閉スペクトラム症には、重度~軽度の連続性があります。
「おはよう」に対して「リンゴ!リンゴ!リンゴ!(昨日食べたリンゴ おいしいよ もっと欲しい きみにも食べて欲しい」と、受け取り側の(善意のある)解釈が必要な人から、職業生活をそれなりにスムーズに送ることができる人まで、様子は様々です。
自閉症は生まれつきの障害で、成長する途中で発症する病気ではありません。その字づらから「閉じている(ように見える)」と、分かりやすく、残酷で、シンプルに説明されますが、1人ずつ現れ方が違うので、説明や対応を固定することは難しいです。特にSNSでは、「発達障害あるある、自閉症あるある」というタイトルの動画が増えて、自閉症者の見え方だけを解説する動画が増えました。
これによって、「自閉症者は、できない人や劣った人として、永遠にそこから変わらない」と捉えられがちです。「もしかして発達障害じゃない?」と気軽に言葉を出しやすくなり、自閉症スペクトラムのイメージがマイナス方向に固定化されて「限りなく完結する」方向に促されます。
本来は、相互作用的に発展するはずのコミュニケーションで、どちらか一方だけに上手くいかなさの原因があると決めつける態度こそが、「閉じている」と私は感じ考えています。
では、「どうしても閉じることができずに、開き続けている」という視点で自閉症を考えた時、どこに向かって「開いている」のでしょうか?
2.開きっぱなしの自閉症とは?
They are characterized by some degree of difficulty with social interaction and communicatin.*1
社会的に関わり合う事と、コミュニケーションの、ある程度の困難さ、と訳すこともできます。
コミュニケーション上で、お互いが注意を向けてスポットライトを当てているテーマ・場所・空間・視覚的イメージが違っていたとしたら?当然、コミュニケーションはズレてきます。
それぞれの注意が別々の対象に「開きっぱなし」の状態を考えてみましょう。
- 感覚過敏 → 光・音・匂いなどの刺激に対して、「開き続けている」。
- 繰り返される同じ行動 → 過去のある点や、過去に連続したプロセスに向かって、思考が「開き続けている」
- 過剰集中 → (1)時間の連続性に対して区切りをつけない。どこまでも完結させず、未来に向かって「開き続けている」。(2)特定の対象に対して、注意力が「開き続けている状態」
相手を中傷して黙らせるために「自閉症」と言う言葉を使っている人達の群れは、残念なことに一定数います。その人たちは、コミュニケーションをとらずに距離を置くという方法を認められず、手数が少ない限られたコミュニケーションの方法にこだわり「閉じている」とも言えます。
メタレベルでは、「あいつは自閉症だ」と相手を貶める人達の閉じようとする態度を、「自閉症」と言われた側の人が、鏡のように映し返しているとも言えます。
大事なのは、お互いが歩み寄ることができるコミュニケーションのプロセスです。そこで、こうすれば上手くいく!……という方法の解説にすぐに移りたいところですが、その前に、自閉症の当事者が「戦略的に、(自分が閉じている印象を与えていることを分かった上で、)あえて閉じている」という状況を考える必要があります。
3.戦略的に閉じる、わざわざ説明しない
自分自身の状況を、振り返ってメタ認知ができる人は、戦略的に「閉じる」という行動をとることができます。そこには、煩わしさを減らすという合理的な判断も含まれていると考えています。
新しく出会う20人との関わりで、20回とも同じことを障害者側が説明しなければならないのだとしたら、そんな説明に時間を使うのではなく、仕事で成果に結び付く行動に時間を使った方がある意味では合理的です。
また、病気を周囲の人にオープンにして伝えることで、病気の「現われ」に過剰に目を付けてうわさ話を広めたり、嫌がらせをしてくる人が現われることは、メタ認知ができるくらいの人なら簡単に予測できます。そんな不確実性に大事な職業キャリアが曝されるなら、説明無しでマイペースを貫いた方がまだ合理的だと考えることができます。その態度が、見方によっては閉じている、と思われようとも、です。
4.カタルシスからアサーションへ。
病名やハラスメントなどは、状態や被害を打ち明けて社会的に広めるために「名付け」が必要な段階が必ずあります。過去の感覚体験を打ち明ける「癒やし」や「カタルシス」を通ります。「ASD(自閉症)ができないことあるある」という動画がここまで普及した今は、リアルタイムで感じている気持ちを伝えて、対応の修正を交渉する態度である「アサーション」を普及させる段階だと考えています。
発達障害認定をされている側の方が「より多くのことを感じ、より多くの選択肢を考え、より少なく言葉にするか黙り込んでいるのだとしたら?質問の仕方や関わり方は変わるのではないでしょうか。
「より少なく感じ、多く語る人」と、「より多く感じ、少なく語る人」は、お互いに違うアプローチをして歩み寄ることがスムーズなやり取りには必要です。コミュニケーション不全は、どちらか一方の問題ではありません。コミュニケーション不全は自閉症でなくても自然に起こるものです。
今は、目に見えない力のエネルギーを考える時代になっていると感じ考えています。相手の感情は、相手の言葉で出して貰わなければ分かりません。
- 反発しているように見えて、実は戸惑っている。
- 何も考えていないのではなくて、頭の中で連想した考えの多さに圧倒されている。
動かないように見えて、見えない部分で力が拮抗している。内側へ向かうエネルギーと外側へ向かうエネルギーが引っ張り合っている。未来に向かう力と過去に向かう力がせめぎ合っている。
これらは想像ですが、可能性はゼロではありません。
自閉症者は完結せず、変化を続けています。
その視点でこれからも考えていきたいです。