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誰かに「詰んでる」と言われても人生は続くし、パフェは美味しい

 

無職休職は詰む?20代30代40代の大人の職場いじめとハラスメント。転職再就職で復帰するための考え方

私は「仕切り直してやっていこう」という希望を感じさせる言葉が割と好きです。

 

少し前までは、「ああ、詰んだ!」と自虐的に言う人に驚いていましたが、最近ではそのフレーズに「よし、次いこう」という前向きな感情を感じられるようになりました。

 

1回負けて再挑戦

 

これは気力を感じさせるいい言葉だと思います。

 

その一方で、どうやら最近は「アイツ、もう終わってるね」と誰かをジャッジをする意味で使われているようです。

  • 20代でコレをしておかないと詰む
  • 35歳になってコレができないと詰む
  • いい歳してコレをしている人は詰む
  • 老化はある日突然「くる」から対策しろ

などの言葉。不安を与えるだけ与えて、行動を促しているようで解決策は示されないので、実は相手の行動を縛り付けています。

 

ネット上にバラ撒かれた「諦めて何もするな」や「一緒に老化して衰えよう」という教訓めいた言葉。誰かの口から出た言葉が細かい雪のように地面に降り積もり、まるで溶けない雪の塊が汚く黒ずんで残り続けているようです。

 

あるいは、先端が尖ったまきびし。これから進もうとする人生の先に、なぜか分からないですが先人たちが"親しみを込めて"、後輩が歩きにくいように困難を路上にばらまいているようにも感じます。

 

お前も終わるんだよ、おっさん、おばさん」と鋭利な言葉を向けられているようです。

 

その言葉を、10代の若者ではなく、50代60代の人たちが使っている。この動きにくく息苦しい感じ、ザラザラした感触の言葉が至るところに蔓延しているように私は感じています。

 

 

折れた、潰れた、何もしない責任

組織には「暴言や暴力を我慢できてしまった人の恨みつらみの思念」が残り続けていると私は思っています。

 

  • 理不尽な苦しみに耐えることが出来てしまった人。
  • 耐えるしかないと妄信していた人
  • 耐える以外の方法を知らなかった人
  • 無感情を装った人。
  • 癒される機会がなかった辛いトラウマが残り続けている人。
  • 恥ずかしいトラウマを打ち明けることができなかった人。

 

人を息苦しくさせる言葉が満ちている空間では「私は悪くない、みんなも言っている」という言葉が多いことを感じます。激務や過労、いじめ、ハラスメント。視界に入れながら何もケアをせずに放置していたくせに「ああ、何もしないのに折れちゃった、潰れちゃった、私(たち)は悪くない、残り続けている私たちはタフだ」とでも言いたいような他責の言葉。去っていく人を「ああなったら終わりだね」と毛嫌いするように仕向ける耳打ちをされることもあります。

 

  • 「出て行った人は負け(たぶん今ごろ死んでるか、みじめに生きている、可哀そうに)」
  • 「残り続けている私たちは勝っている(嫌がらせをされる方が弱くて悪い)。」
  • 「私は上手く立ち回った。私は"タフ"になった。生き延びた。休まずに通い続けた。」
  • 「暴言暴力はやったもん勝ち」

 

残り続けることが「勝ち組」で、組織を抜ける人が「負け組」とテレビが煽った時代です。

 

誰もケアしてくれないぞ、我慢しろ」、「ここは学校じゃない」「社会は厳しいんだぞ」、「責任とれないよ?」「それぐらい笑い飛ばせ」と言われてモヤモヤするのも当然で、いつ何をどう行動すればいいのかは全く言葉にされておらず「You are bad!」「弱者(笑)」「www」としか言っていません。

 

小学生でもできるぞ」と言ってくる人には、「そんな言葉どこで覚えてきたの?」と聞いてみたくなります。こうした言葉は、きっと、おじさんおばさんよりも、もっと年上のおじさんおばさんが使ってきた暴言の残りカスです。嫌な言葉を記憶し続けて、使い続ける人の態度には未熟さが現れています。理不尽に与えられた傷つきに時間をかけて向き合わない未熟さと、自分自身をセルフケアしようとしない未熟さです。

 

たまに、いつも何かを監視するように睨みつけている表情の人がいます。「どうしてお前は我慢をしないで、のうのうと生きることが許されているんだ」とでもいうような表情です。それこそ未熟さの現れで、私たちが想像する以上の妬み・恨みが内側から流れ出ているように感じます。その人が睨んでいるのは、今現在の特定の誰かというよりは、過去に理不尽を与えてきた誰か(多分、今はもう定年退職していなくなった人)や、従うしかできなかった理不尽な仕組みに向いていると想像をしています。

 

しかし、「そのままだと詰むぞ。あなたのために。言う通りにしろ」と言ってくる人の態度や暴言を多様性のもとで認めていては、私たちの健康がじわじわと削り取られてしまいます。暴言を無条件に受け入れたくはありません。むしろ盾にしたい言葉はこうです。

 

年上への恨みは年上に返せよ。

 

一社一筋40代の社員が、新卒の22歳をいびる異様で幼稚なふるまいは、癒しきれないトラウマと「大事にされなかった傷つき」があるからだと思います。

 

肉体的に同じ空間に生き残り続けることこそが「強さの証、みじめではない証」とするなら、その証明は誰かを派閥からはじき出して退職させることで達成することができ、誰かを自分の影響力で共同体から追い出すことは最高に自己効力感を高めて心を癒してくれるでしょう。しかし、自分がみじめではないことを証明し続ける生き方は、みじめな存在として設定する相手が常に必要です。相手の動きを常に監視するために心が消耗し、その割には得られる満足感はすぐに失われやすく、人間相手に終わりのない戦いを挑む生き方です。

 

さっさとゲームチェンジをすればいいのに、「あいつ辞めたんだな。心折れたか」、「あのままだとあの子潰れるだろうね」、「40超えて平社員は詰む」、「独身は詰む」、「老人ホームで部屋にひきこもってる陰キャ老人は詰む」などと、たまたま目の前を通り過ぎる人に対して言いたい放題のジャッジをしたがる人がいて、そうした人の言葉も多様性の平等の元で残り続けます。ダイバーシティという言葉が流行する前から、公共空間での言葉の暴力は野放しにされています。

 

若者は30代40代50代をお手本にするので、10代もそれを真似します。「このクラスで誰が「チー牛」か?」や、「陰キャあるある」など、暴言や暴力を目の前にへらへらとやり過ごすか、黙り込むことでしか身を守ることができなかった無力感を生み出す関係性が、学校でも会社でも再現されているように思います。

「私は上手くやるから大丈夫」

「私はああはなりたくない」

そんな言葉が半笑いの口から漏れ出してくるようです。

 

私が違和感を覚えているのは、だれかを惨めな存在として仕立て上げた人は、長く生き延びた人のはずなのに自信と活気があるようには見えないことです。与えられた無力感と傷付きを、今度は与える側として関係性を再現することで、どう行動すれば良かったのか、どうすれば対応できたのか、他人を食いつぶして心を癒そうとする身勝手で子どもじみた救済の儀式をしているようです。

 

公共空間で、周りに人が大勢いる環境で暴力が振るわれ、暴言が吐かれているのに、見て見ぬふりをして誰も助けに来てくれないと、とても痛くて孤独感を激しく感じるものです。

 

暴言暴力を受けて出すうめき声や悲鳴が誰の耳にも届かないように感じるときに、人は誰でも孤独を強く感じます。人の耳には聞こえない周波数を延々と発信し続けているかのような無力感も感じます。トラウマを人の言葉で誰かに話すことも恥ずかしさを感じることです。

 

そして、「痛みを我慢することが、努力でもなんでもなく、行動しないただの怠惰な人間だった」という事実も、さらに追い打ちをかけます。多分この時点で闇落ちする人が増えて、「屈辱・恥・みじめさ」を、今度は与える側として成長しようとする人が一定数現れます。そうして、一カ所に留まり続けて、常に誰かを監視して睨み続ける人が生まれ、「ケアされなかった傷つき」を癒すための子供じみたおふざけをするようになります。

 

 

加害性は顔に現れる

年齢を問わず、いつも不満そうな顔・いつも意地悪そうな顔つきの人はいるもので、そういう人には私はザワっとした違和感を覚えられるようになりました。

 

復讐こそが人生だ、とでもいうような態度を捨てきれない人は、誰かを睨み続けています。

 

事実すぎて大っぴらには言えませんが、顔つきが良い人は性格が穏やかで接していて心地いい人が多く、意地悪そうな顔の人は攻撃性が強くて迷惑な人が多いです。

 

新人ばかりいびる人は顔つきからして意地悪です。その姿は「"タフ"を証明するために、果てしなく戦いを挑んでいる」ように見えます。常に勝っていることを証明してくれる相手が必要で、無理やり関係性に引きずり込まれた人にはたまったものではありません。

 

「私はこの世界で大事にされない、去っていく時や死ぬ時に見届けられない悲しい存在……お前もそうなんだよ!若くないぞ。老化するぞ!」と偏った思想を与えたい人は顔にでます。

  • ニヤニヤ
  • ニタニタ
  • ギラギラ(常に何かを睨んでいる表情)

まともに判断ができる人は関わらずに距離をとりますが、完全に離れることは難しいです。逃げ遅れて止まった人からターゲットにされてしまいます。退職金・家賃・履歴書の見栄え、家族、友達への見栄など、多くの理由でそうそうすぐに退職を実行できる人は多くはありませんが、対応策はあります。

  • 稼ぐ技能を身に付ける
  • フットワーク軽く動き続ける

などが自衛のための強力な力です。加害をする相手は同じ場所から動きたくない人なので、動き続けることが最大の自衛です。

 

他人の復讐に巻き込まれ、下層ステータスに押し込まれて動けなくなった人が、精神の病気にかかり自殺をしてきたのだと思います。加害性が目立つ人の「あいつ、詰んだな(笑)www」は、ケアされてこなかった惨めさを持ち続けている人の嫌なやり方、最後の砦、せめてもの強がりなのかもしれません。意地悪な人たちから、ニタニタした引きつった醜い笑いを取り上げてしまったらみじめさしか残らず、そのみじめさにきっと耐えられないでしょう。

 

ニタニタ笑いが染みついてしまった人が「どうして、私は私自身を大事にできずに、他人に言われるままに我慢を続けてしまったのか」を振り返ることはきっとありません。「暴言や暴力に対応できなかった無力さ」を思い返すことは身を切るような痛みがあり、相当不快な体験です。

 

組織を抜けた人も、独身でいる人も、ただの高齢者も、見えなくなっただけで死んではいません。どこかへ移動しただけで、「詰んでる」と言われた相手は、きっと今ごろ気楽にパフェでも食べて人生を楽しんでいます。

 

その幸せそうな姿を、惨めさを与えることで傷心を癒そうとする人は認めません。相手を下層ステータスに踏み下げて「あれが末路だ」、「あいつ詰んでる」とジャッジする人ほど、他人の話・過去の話を同じように延々とすることを好みます。大事にされている人や、自分をセルフケアして大事にしようとする人を見ると無性にイライラするのでしょう。

 

「詰んでる」とジャッジだけをして、何の改善策も別ルートの案内することをしないのは、人生を汚れた服を着せ合うルールのゲームだと認識しているからです。相手のより良い変化を望むことができない人は、どれだけ長く同じ場所に居ようと、どれだけ収入が安定していようと、精神的に未熟で惨めだと私は思ってます。常に「みじめな存在」というステータスの誰かがいないと心理的に安心できず、その場の攻撃性が今はどこに向かっているかに毎日気を張っていると、心が消耗して刺激に鈍感になります。

 

公園の遊具にスプレーで落書きをして「あれ俺がやったんだ」と言ったり、グループからハブって1人にさせて「ぼっちで可哀そう(あれ私がやったんだ)」と言ったりと、人に対して暴言や暴力という強い刺激を与えて返ってくる反応でしか自分の実体の輪郭を感じることができなくなっていきます。常に感情の揺らぎという戦いの中にいるので、周りへの認識も歪んでいます。

  • ギャップでしか物事を覚えていられない
  • 善良な人を「いい格好をしようとする人、裏では酷いことをする人」と認知する

心を癒しきれない人たちが、「ステータス名・属性名」をコロコロと転がすように軽く扱い、手のひらサイズのディスプレイに相手を映して、過去や歴史を無いものとして扱い、ステータス名を付けて陳列します。「ほら、あそこに詰んでるみじめな人がいるよ!属性は〇〇だよ。みんな見てwww」とギャップを大げさに誇張して騒ぐことでしか人と関われなくなります。

 

多くの組織では、NPD(自己愛性パーソナリティ)という種類の人間や、ダークトライアドという罪悪感の感性が異常な人が、まともな人間のふりをして、善良で無害な人を「ヤバイやつ」に仕立て上げる土壌があると私は感じています。多くの人の心の中に「公共空間の暴言は許される、ターゲットにならないように加害性の強い人には従うしかない」と、多くの人が暴言暴力に対する無力感を学校生活の教室や、新卒で入った新人歓迎会や飲み会で植え付けられているからだと想像をしています。

 

2010年代には年間3万人が日本で自殺をしていました。死ななかった人の中には、復讐として妬み・恨みを暴言に変えて痛みを与える側に回った人もいます。

 

現実を認識するときに、ステータスの判断軸で「みじめな存在」がいると思って振舞えばいるように世界が映りますし、いないと思って振舞えばいないように世界は映ります。暴言暴力の存在を身近に感じ続ける人にとっては世界は戦いとして映り、時間をかけて暴言暴力の痛みをセルフケアしてきた人にとっては世界は「穏やかにやりやすいように過ごしていい」環境として映ります。そのあたりは、暴言暴力のない集団は実際にあるので、攻撃性が薄い人の集まりに出会えることを信じて動き続ける気持ちが大事です。

 

そして、人を動けなくさせる暴言暴力に対抗する力を手に入れるために、キャッチーな単語で物事を流さずに、長文の文章で多面的に考える習慣を作ることが、健康的な心を守る盾になります。

 

人生が続くこと

実際には、特定の年齢になっただけで人生が詰むことは無いですし、自分自身が関わる属性について、誰かが「詰んでる」と言ってもそれとは関係なく私たちの人生は続きます。

 

「あいつ詰んでる」と言えるのは大通りにいる人で、前にも後ろにも似たような大勢の人が同じ方向に進み、横道に行きたくても立ち止まることが難しい道です。たとえその場所が「人混みでもみくちゃにされて、粗末に雑に扱われてみじめな気持ちになる場所」だとしても、その賑わいから離れる寂しさを思うと、一瞬ためらいます。

 

もちろんすべての場所がそうした殺伐とした環境ではないですが、人が大勢いる場所は、荒々しい言葉がザラザラと肌を削り、服にべったりとついた血が自分の血なのか誰かの返り血なのか、よく分からなくなる場所はあります。傍から見ると適応できてしまう人の方がまともではない場所があります。暴言や暴力を「仕方ないよね」と我慢している人は「詰んでるww」と上ずった声ではしゃいでるうちに、ニタニタ笑いやギラギラした目つきの表情になるでしょう。ニタニタ。ニヤニヤ。そのうち地球の重力に負けて「ぐへへへ」や「いーひっひ」と、悪代官や悪い魔女の笑い方をするようになります。

 

いくら人が多くても、良くない環境の大通りを進むと、黒ずんだ雪でびちょびちょに服が汚れ、ばらまかれたまきびしを踏んで傷つくことがあります。環境の良し悪しを捉える感性がある人にとっては、痛みが無い安全な横道に行こうとするのは自然な流れです。

 

大通りにいる多数派側の人たちにとっては、群れから離れて進む横道は行き止まりに見えます。「詰んでる」ように見えますが、実はその先には細い曲がり角があって、道に続きがあることも多いです。獣道でも茨の道でもなくて、意外と舗装されたアスファルトで、その先には人もいます。

 

誰かに詰んでると言われても人生は続きます。仕切り直しすることもできます。何度か道を曲がった後に大通りに戻ることもできます。

 

集団を離れる人を、「自分で自分を大事にケアするために脇道へ避難した人」と捉える方が私はしっくりときます。それが生き生きとした情熱ではなくて、疲労の結果だったとしても、セルフケアをしながら進む人生の方が私は良いと思います。

 

大人の方向転換に祝福はありません。周りに一緒にいる人が減っていく孤独感と、その先にも新しく出会う人がいる驚きがあります。そうした感情の実感を積み重ねることが、大人になることだと私は思います。

 

集団から離れることを「逃げるは恥だが役に立つ」と言ったり、「戦略的撤退」と呼んだり、「仕切り直し」と名付けたりして、同じ場所にとどまり続けている人よりは移動している人の方が健康的であっけらかんと生き生きしています。

 

そういう人の姿を見たり、一緒に働くことが私は結構好きだったりします。大事に思える人と一緒にパフェを食べる人生は楽しいです。血まみれになって喉に掻き込むパフェよりも、大事な人と裏路地のカフェでゆっくりと食べるパフェの方が絶対に美味しいです。

 

1回負けても再挑戦。

失敗してもリカバリーをすればいい。

 

集団を離れても、人生は明るく続きます。

 

私たちは思っているほど終わっていないし、意外と詰んでいません。

 

 

 

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このブログでは、1つの会社の人間関係に依存しないための考え方を発信しています。大人のいじめの対策方法を一緒に考えていきましょう。