月曜日のエッセイです。ジャンルフリーで自由に書いています。
1.弱り続けていく人の言葉が日常には少ない
1-1 回復した人が病気を語る
この数年間、新型コロナウイルスの感染から回復をした立場から、病気を語る人が増えました。
「病気になったけれど今は回復して元気」という語りには、希望が満ちています。明るくてスッキリとした語りには勇気づけられます。たしかに、苦しんでいる最中のうめき声やかすれ声よりも、病気から回復した人の言葉が力強く届くのは自然な流れなのかもしれません。
人に「見たいものを見て、見たくないものは見ない」というシンプルな行動原理がある以上は、「回復」を見たいと思い、「死や、死を連想させる事柄」は見たくないという気持ちはもっともです。
弱る人を遠ざけたくなるのは「健康な時間がいつ終わるか分からない不安」が掻き立てられることも、ひとつの理由であるようにも思います。
1-2 死なない病気が攻撃性を引き出す?
治らない後遺症をもち続けたまま生き続けている人や、弱り続けながら生き続けている人、などは確実にいます。
その人たちの隠さない症状や隠せない症状に対して、「慣れきった日常に闘いが仕掛けられた」と捉える人は大勢います。まるで、病気の症状そのものに攻撃誘発性があるかのように語られます。
「自分で症状を抑えないのは迷惑だ」と言ったり、「自分がかかってきた病気は治ってきたから、この世の全ての病気は努力すれば治る。病気を治そうとしない人は怠惰な怠け者だ」などと思ったりします。
死なない病人に対して、どうして過剰なまでに回復することを期待するのかを、今日は深堀りして考えます。
2.病人に過剰な期待をする理由
2-1 「支えれば治る」という淡い幻想
頑張っても治らない病気があることは事実です。
私たちは、念じた瞬間に周りの人が勝手に動くなんてことはないことが分かっているはずなのに、病気に対しては「なんだか頑張れば治る、治らないのは努力や自己認識が足りていないからだ」という根性論をもってきがちです。
「頑張れば治る」という思いは、「健康寿命が失われることが恐い」という恐怖と隣り合わせにあるようにも思います。その恐怖は、「必ず治す方法がある。誰でも頑張れば治る。何が何でも治すべきだ、あいつを治してやる!」という妄信へとつながります。
2-2 病気にワクワクを求める
まず、病気ではない相手に対して、次のようなフレーズがあります。
- がっかりハーフ
- 残念な美人
- 残念なイケメン
これらを病気に置き換えると、とたんに暴力性は強く現れます。
- どんくさいALS
- 体力が無いガン末期患者
- 天才性がない発達障害者
人が、一方的に価値観を押し付けたい時に使う「良くしてあげる、矯正してあげる、なんとなく支えたい」などの表現は、すべて健康側から異常側を見るという視点です。
病人に過剰に期待する人は、「弱った病人でも、実はスゴイ!」というワクワクやギャップを勝手に求めて、「思っていたのと違った」と一方的にガッカリして通り過ぎていきます。
すこしでも病気の人の感性を想像しようとできるなら、病気がワクワクするものではないことくらい、すぐにわかります。
2-3 「語りたがり」のミスリード
もうひとつのよくある幻想は、「病気の診断を受けた人が、すぐさま誰かに話したがっている」という思い込みです。こうした勘違いによって、病人の当人には「常に分かりやすく説明される存在でいるべき」というプレッシャーがかけられます。
どうして手が震えるの?という問いかけに対して、「病気だから。わからない」という答えでは満足できない人がいます。「あなたは変だから、その理由を説明して」とコミュニケーションを求めたり、「なんで出来ないの?」と暴言を吐いたりしてしまいます。
病気のことを語ることが自由である以上は、次のような気持ちも尊重されるべきです。
- 自分の病気を世の中の人に広く知ってもらいたい、とは思わない。
- 病気の体験を後世に残せるように語りたい、とは思わない
- 病気をオープンにしたい、とは思わない
当然ながら、「この人になら弱いところを見せてもいい」と思ってもらえる機会は、誰にでも与えられることではありません。病気からの回復が義務ではないように、病気を語ることも義務ではありません。それらはただの権利。障害者雇用での面接のように、必要性を感じた時にだけ話すことなのかもしれません。
病気を話したがるのは、病気を持つ人よりも、たいていは病気を眺めている人の方が多いと考えています。病気の人は、「できない人」でもありますが、「したい人」でもあります。「できなさ」の語りを積み重ねる人はPV稼ぎのために他者否定をする人で、その人達は「理解者」ではなく、相手ができないままでいることを望む「語りたがり」です。
3.支えると、すり減る。
病人に関わりたいと思う理由は様々ですが、一つシンプルな事実として、病人を支援すると何かがすり減ります。支援をするには、時間・お金・体力・精神力などの対価を支払う必要があります。
治る病気しか経験してこなかった人が言葉にする、「病気の人の気持ちがわかり、寄り添い支える人でありたい」という意思表示は、「変なものを知りたい」という好奇心と何が違うのでしょうか?病気の当事者からすれば、ただの好奇心と献身の違いは、継続して支援し続けてくれるかという点でとても重要です。
献身を現す一つの方法は、医療/福祉/介護/教育の関係者として職業に就いていることのようにも思います。「助けが不十分だ」と突っぱねられたり、関係のないイライラを身勝手にぶつけられたりすることで、当然のように心と体がすり減ります。無傷では済みません。
どんどんすり減って、それでもまだ病気の人に関わろうとする行動をするためには、意志の力に頼るよりも、お金という対価を得られる職業でなければきっとやっていられません。とはいえ、支援を続けることによって、支援技術が確実に身に付きます。
ベット上で放置されて体がカチコチに固まってしまった人に対して、「気もちをわかりたい」と10回唱えてみたところで、何の足しにもなりません。うめき声をただ横で聞くだけの関わりしかできないことや、握った手を握り返してくれた動作が意志なのか反射なのか分からないことや、痛いときにグワッと目を開いて反応を表すだけしかしない人、それがもしも家族や友人だった場合、頼りたいのは技術を持った人ではないでしょうか。
そして、日常的に支えている人が「支えている」なんて言葉を日常で使うことは決してありません。「支える」という綺麗な言葉を使っている限りは、所詮、病気は他人事です。病人にワクワクを求める「病人エンタメ」とは一定の距離を置くことが必要だと考えています。
さて、「病人に寄り添う態度を感じ取れる本はあるか?」と考えた時に、私は石牟礼道子さんの『苦界浄土』がそれにあたると考えました。
4.『苦海浄土』のことばを読む
作家の石牟礼道子さんは、水俣病を題材にして『苦海浄土』というフィクションを書きました。この作品には、「回復するべき」という押しつけは無く、ただひたすらに記録風の文体に徹しています。次の引用は、水俣病にかかった漁師の人を語る場面です。
「見てくださいまっせ、このひとば。おろ良か頭になってしもて。漁業組合長までしたひとが。耳もきこえんごとなったし、演説までしよったひとがひとくちもきけんごとなってしもうたし、あぎゃんとして、毎日作りよります。いつまで作ればおわりますことじゃろ。
ありゃきっと、死んでから先まで作る気ですばい。気持ちだけは海にゆきよる気持ちでっしょ。ありゃもうほんに、賽の河原の石積みじゃ。うち家の父ちゃんな、赤子になってしもた」 (『新装版 苦海浄土 わが水俣病,講談社文庫』308-309ページ)
病気から回復をしないまま生き続けている人がいて、そうは言っても完全に取り残されている訳ではなく、ただひっそりと生活をしている。周りの環境から多くのことを感じ取りながらもより少なく言葉として出している。弱りながらも生き続けている人が、「期間限定で慣れ親しんだ行動ができるように工夫すること」が、良い悪いの判断を超えた寄り添いの一つ姿なのかもしれません。
5.病気からの回復が義務ではないこと
新型コロナウイルスの蔓延によって、健康な人と病気の人の境い目があいまいになりました。治らない病気を生きる人や、後遺症を抱えて生きるリアリティが一度は身近になりましたが、再びその境い目がくっきりと濃くなり、人の関心は「治る病気の爽快エンタメ」に流れつつあるように感じています。
治らない病気のリアリティの強弱は人によって違いますが、「支えれば治るという幻想」や、「他人の病気にワクワクを期待する態度」や、「病人が語りたがっているという認識」は多くの人が無自覚に持っているかもしれません。
病気からの回復を義務として押し付けず、病気を語ることを押し付けようとしない態度が、病気の当事者をすこし楽にすると想像しています。
知らない病気の症状に出会った時に、予防策をとりつつも、「わからなさ」をその場にいる人たちで共有し続ける態度や、「症状の現れ」に対して善悪をつけないままに保留する態度をもつことが、治らない病気を生きている人をすこし楽にすると考えています。