生活を豊かにするブログ ~本と技術とオーディオドラマ~

【生活にプラスするアイディア集】キャリア迷子/ひきこもり状態/発達障害グレーゾーン/HSPを生きるヒント ◆1自分を守る「ストレスを減らすコーピング、悪意の心理学」 ◆2家族と友人を守る「いじめの対策/性教育」 ◆3成長を目指す人のための「勉強スタイル、再就職&転職スキル」 ◆4お金を増やして守る「長期積立&短期トレード」

【月曜日のエッセイ】第16回 病気からの回復が義務ではないことについて

月曜日のエッセイです。ジャンルフリーで自由に書いています。

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1.弱り続けていく人の言葉が日常には少ない

1-1 回復した人が病気を語る

この数年間、新型コロナウイルスの感染から回復をした立場から、病気を語る人が増えました。

 

「病気になったけれど今は回復して元気」という語りには、希望が満ちています。明るくてスッキリとした語りには勇気づけられます。たしかに、苦しんでいる最中のうめき声やかすれ声よりも、病気から回復した人の言葉が力強く届くのは自然な流れなのかもしれません。

 

人に「見たいものを見て、見たくないものは見ない」というシンプルな行動原理がある以上は、「回復」を見たいと思い、「死や、死を連想させる事柄」は見たくないという気持ちはもっともです。

 

弱る人を遠ざけたくなるのは「健康な時間がいつ終わるか分からない不安」が掻き立てられることも、ひとつの理由であるようにも思います。

 

1-2 死なない病気が攻撃性を引き出す?

治らない後遺症をもち続けたまま生き続けている人や、弱り続けながら生き続けている人、などは確実にいます。

 

その人たちの隠さない症状や隠せない症状に対して、「慣れきった日常に闘いが仕掛けられた」と捉える人は大勢います。まるで、病気の症状そのものに攻撃誘発性があるかのように語られます。

 

自分で症状を抑えないのは迷惑だ」と言ったり、「自分がかかってきた病気は治ってきたから、この世の全ての病気は努力すれば治る。病気を治そうとしない人は怠惰な怠け者だ」などと思ったりします。

 

死なない病人に対して、どうして過剰なまでに回復することを期待するのかを、今日は深堀りして考えます。

 

2.病人に過剰な期待をする理由

2-1 「支えれば治る」という淡い幻想

頑張っても治らない病気があることは事実です。

 

私たちは、念じた瞬間に周りの人が勝手に動くなんてことはないことが分かっているはずなのに、病気に対しては「なんだか頑張れば治る、治らないのは努力や自己認識が足りていないからだ」という根性論をもってきがちです。

 

「頑張れば治る」という思いは、「健康寿命が失われることが恐い」という恐怖と隣り合わせにあるようにも思います。その恐怖は、「必ず治す方法がある。誰でも頑張れば治る。何が何でも治すべきだ、あいつを治してやる!」という妄信へとつながります。

 

2-2 病気にワクワクを求める

まず、病気ではない相手に対して、次のようなフレーズがあります。

  • がっかりハーフ
  • 残念な美人
  • 残念なイケメン

これらを病気に置き換えると、とたんに暴力性は強く現れます。

  • どんくさいALS
  • 体力が無いガン末期患者
  • 天才性がない発達障害者

 

人が、一方的に価値観を押し付けたい時に使う「良くしてあげる、矯正してあげる、なんとなく支えたい」などの表現は、すべて健康側から異常側を見るという視点です。

 

病人に過剰に期待する人は、「弱った病人でも、実はスゴイ!」というワクワクやギャップを勝手に求めて、「思っていたのと違った」と一方的にガッカリして通り過ぎていきます。

 

すこしでも病気の人の感性を想像しようとできるなら、病気がワクワクするものではないことくらい、すぐにわかります。

 

 

2-3 「語りたがり」のミスリード

もうひとつのよくある幻想は、「病気の診断を受けた人が、すぐさま誰かに話したがっている」という思い込みです。こうした勘違いによって、病人の当人には「常に分かりやすく説明される存在でいるべき」というプレッシャーがかけられます。

 

どうして手が震えるの?という問いかけに対して、「病気だから。わからない」という答えでは満足できない人がいます。「あなたは変だから、その理由を説明して」とコミュニケーションを求めたり、「なんで出来ないの?」と暴言を吐いたりしてしまいます。

 

病気のことを語ることが自由である以上は、次のような気持ちも尊重されるべきです。

  • 自分の病気を世の中の人に広く知ってもらいたい、とは思わない。
  • 病気の体験を後世に残せるように語りたい、とは思わない
  • 病気をオープンにしたい、とは思わない

 

当然ながら、「この人になら弱いところを見せてもいい」と思ってもらえる機会は、誰にでも与えられることではありません。病気からの回復が義務ではないように、病気を語ることも義務ではありません。それらはただの権利。障害者雇用での面接のように、必要性を感じた時にだけ話すことなのかもしれません。

 

病気を話したがるのは、病気を持つ人よりも、たいていは病気を眺めている人の方が多いと考えています。病気の人は、「できない人」でもありますが、「したい人」でもあります。「できなさ」の語りを積み重ねる人はPV稼ぎのために他者否定をする人で、その人達は「理解者」ではなく、相手ができないままでいることを望む「語りたがり」です。

 

3.支えると、すり減る。

病人に関わりたいと思う理由は様々ですが、一つシンプルな事実として、病人を支援すると何かがすり減ります。支援をするには、時間・お金・体力・精神力などの対価を支払う必要があります。

 

治る病気しか経験してこなかった人が言葉にする、「病気の人の気持ちがわかり、寄り添い支える人でありたい」という意思表示は、「変なものを知りたい」という好奇心と何が違うのでしょうか?病気の当事者からすれば、ただの好奇心と献身の違いは、継続して支援し続けてくれるかという点でとても重要です。

 

献身を現す一つの方法は、医療/福祉/介護/教育の関係者として職業に就いていることのようにも思います。「助けが不十分だ」と突っぱねられたり、関係のないイライラを身勝手にぶつけられたりすることで、当然のように心と体がすり減ります。無傷では済みません。

 

どんどんすり減って、それでもまだ病気の人に関わろうとする行動をするためには、意志の力に頼るよりも、お金という対価を得られる職業でなければきっとやっていられません。とはいえ、支援を続けることによって、支援技術が確実に身に付きます。

 

ベット上で放置されて体がカチコチに固まってしまった人に対して、「気もちをわかりたい」と10回唱えてみたところで、何の足しにもなりません。うめき声をただ横で聞くだけの関わりしかできないことや、握った手を握り返してくれた動作が意志なのか反射なのか分からないことや、痛いときにグワッと目を開いて反応を表すだけしかしない人、それがもしも家族や友人だった場合、頼りたいのは技術を持った人ではないでしょうか。

 

そして、日常的に支えている人が「支えている」なんて言葉を日常で使うことは決してありません。「支える」という綺麗な言葉を使っている限りは、所詮、病気は他人事です。病人にワクワクを求める「病人エンタメ」とは一定の距離を置くことが必要だと考えています。

 

さて、「病人に寄り添う態度を感じ取れる本はあるか?」と考えた時に、私は石牟礼道子さんの『苦界浄土』がそれにあたると考えました。

 

 

4.『苦海浄土』のことばを読む

作家の石牟礼道子さんは、水俣病を題材にして『苦海浄土』というフィクションを書きました。この作品には、「回復するべき」という押しつけは無く、ただひたすらに記録風の文体に徹しています。次の引用は、水俣病にかかった漁師の人を語る場面です。

「見てくださいまっせ、このひとば。おろ良か頭になってしもて。漁業組合長までしたひとが。耳もきこえんごとなったし、演説までしよったひとがひとくちもきけんごとなってしもうたし、あぎゃんとして、毎日作りよります。いつまで作ればおわりますことじゃろ。

 ありゃきっと、死んでから先まで作る気ですばい。気持ちだけは海にゆきよる気持ちでっしょ。ありゃもうほんに、賽の河原の石積みじゃ。うち家の父ちゃんな、赤子になってしもた」  (『新装版 苦海浄土 わが水俣病,講談社文庫』308-309ページ)

 

病気から回復をしないまま生き続けている人がいて、そうは言っても完全に取り残されている訳ではなく、ただひっそりと生活をしている。周りの環境から多くのことを感じ取りながらもより少なく言葉として出している。弱りながらも生き続けている人が、「期間限定で慣れ親しんだ行動ができるように工夫すること」が、良い悪いの判断を超えた寄り添いの一つ姿なのかもしれません。

 

 

5.病気からの回復が義務ではないこと

新型コロナウイルスの蔓延によって、健康な人と病気の人の境い目があいまいになりました。治らない病気を生きる人や、後遺症を抱えて生きるリアリティが一度は身近になりましたが、再びその境い目がくっきりと濃くなり、人の関心は「治る病気の爽快エンタメ」に流れつつあるように感じています。

 

治らない病気のリアリティの強弱は人によって違いますが、「支えれば治るという幻想」や、「他人の病気にワクワクを期待する態度」や、「病人が語りたがっているという認識」は多くの人が無自覚に持っているかもしれません。

 

病気からの回復を義務として押し付けず、病気を語ることを押し付けようとしない態度が、病気の当事者をすこし楽にすると想像しています。

 

知らない病気の症状に出会った時に、予防策をとりつつも、「わからなさ」をその場にいる人たちで共有し続ける態度や、「症状の現れ」に対して善悪をつけないままに保留する態度をもつことが、治らない病気を生きている人をすこし楽にすると考えています。

 

【月曜日のエッセイ】第14回 予言が外れたら信仰を捨てるか?

月曜日に投稿しているエッセイです。

ジャンルフリーで自由に書いています。

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1.言葉は泡のような存在

言葉は「泡」のような存在かもしれないと思っています。言葉にもともとは良いも悪いもなくて、触れる感触だけを残していくものだと思います。

 

嬉しいとか、楽しいとか、嫌だとか、えっ?と不思議に思う気もちなど。ずっと覚えておきたい言葉も、消え去って欲しい言葉も、触れて通り過ぎる泡の感触を感じる一時の出来事なのかもしれないと思います。

 

「すべて過ぎ去るからむなしい」とかではなく、「普段は離れていても、気の向いたときにふともう一度近寄けるから安心できる」という感覚です。

 

小説の言葉やラジオから聞こえる言葉、気の合う友達の言葉。そうした言葉を覚えていて、自分からアクセスして近寄れる方法を知っているなら、24時間ずっと言葉が近くに無くても良いように思います。

 

それに、私を100%現してくれる言葉が欲しいという望みは叶えることがとても難しく、ChatGPTやNotionAIでさえ100%の満足を得ることは難しいです。

 

 

2.言葉が離れてくれないのが呪い

言葉には、遠い近い・重たい軽い・つるつるトゲトゲなどの質感があります。誰かの言葉が頭から離れてくれない時、それは呪いのようだと私は感じます。

 

言う事を聞かないと、酷いことが起こるぞ」という脅し文句は、裏を返せば「思い通りに行動させたい」という欲望が現れたものです。多様性、コミュニケーション、協調性、我慢強さなど、ある一面では絶対的に良い言葉でも、これらの単語に「私達が好ましいと思う通りの」というニュアンスが込められている場合には一方的に近づいてきて離れてくれない「呪い」のように感じるのです。

 

「離れてあげない、逃げられないよ」という予言や脅しに対して、「あなたの言葉はいらない」と断る練習をすることも、気持ちを楽にして生きるためには必要なことです。

 

 

3.予言をいつまで信じるか?

予言者の中には、「過激な言葉を相手に刻み付けて、永遠に支配したい」という人がいます。支配関係の中では予言が当たるか外れるかということは問題では無く、支配と信仰が続けられていることが重要視されます。次々と予言を出し続けることで古い予言を検証させずに忘れさせるテクニックも使われます。

 

言葉を発する相手が人でもAIでも、私たちにはもともと、「その言葉をいつまで信じるか」を選ぶ自由があります。それは、予言が外れた後に、「信仰を捨てるか?続けるか?」を選べるということです。「失望した!」という事もでき、「預言者は間違っていない!今回はあえて予言を外すことで我々の信仰する力を試している!」と言うこともできます。

 

予言が正しいかどうかは、後になってみないと分かりません。そもそも、その予言が本当に検証されるかどうかも分かりません。予言と向き合うには、予言を試しに信じる期間をある程度決めておく態度が必要なのかもしれません。

 

 

4.AIの神様

私は、ChatGPTやNotionAIの回答も予言の一種だと考えています。求めただけ新しい予言を返してくれ、神様のように信仰することもできます。ただし、それを時間をかけて実行するのは自分自身です。

 

言葉を発する相手が人間でもAIでも、その言葉を信じて行動する責任は自分にあります。人間の指導者がしていた教育スケジュールの強制や脅しの言葉は、AIの提案というマイルドな表現に変わるでしょう。これまで、人間(特に教師や指導者)を相手にやりにくかった「あなたの言葉はいらないです」と断る練習が、AI相手になら何度でもできます。AIはどれだけ拒絶をしても怒らないし、嫌な態度をとらないし、仕返しをしてくる心配がありません。

 

AIの文章(予言、あるいは脅し)に向かい合う練習をすることで、言葉との距離感をとる練習ができます。予言は永遠に残り続けるものではなく、目の前から去って離れてくれるぐらいがちょうど良いです。

 

言葉は誰かに期間限定で響けばよし、響かなければそれっきり。そんなスタンスで生きていけると楽だと感じています。

 

【月曜日のエッセイ】第13回 節約をしたら砂糖がふわふわになった

月1回以上投稿している月曜日のエッセイです。

サムネイル,月曜日のエッセイ,節約をしたら砂糖がふわふわになった

 

節約する人はすごい!

 今年に入ってから、値上がりのニュースを目にする機会が増えました。私も今年は生活費を節約するようにしています。節約術を探してみると、いろいろと工夫をして節約をしている人が大勢いて、とても参考になっています。

 

飲み物は原材料が面白い

 私の今年の一番の変化は、自販機でジュースや缶コーヒーを買わなくなったことだと思います。どのように変えたかというと、自分で原材料を組み合わせて飲み物を作るようにしました。やってみると、分量を調整したり、原料のメーカーを変えてみたり、自由に色を付けてみたりと、とても面白かったです。

 

 中でも、今年一番成功したのは、ファミリーマートのジャスミンティーラテを再現できたことでした。「伊藤園のジャスミンティーの茶葉+砂糖+スキムミルク」を組み合わせて、それっぽい味を作れました。自宅でいつでも、好きな味を大量に飲むことができるのは、ひとつの幸せな体験でした。最初のうちは、お茶に砂糖を入れるの!?と気になっていたのですが、今では何のためらいもなく入れるのが日常になっています。

 

 暑い日には「メロン味シロップ+炭酸水+明治のファミリア(2Lバニラアイス!)」でメロンソーダフロートを作り、ホッと一息いれたいときは「粉コーヒー+砂糖+スキムミルク」で好みの味のコーヒーを作りました。原材料の保存には、去年に新しく買った専用冷凍庫も活躍してくれました。大元の原料や、粉レベルでの原料を組み合わせるのはとても楽しいです。

 

砂糖がふわふわしていた

 節約を進めると、大容量パックを買って、同じような食べ物を数日間は食べ続けるというスタイルになるような気がします。主食は米/パン/麺類、タンパク質は鶏肉/魚/納豆/卵と、飽きないようにローテーションをしています。それから砂糖・塩・醤油・マヨネーズ。これらは、ちまちま買っていた習慣を変えて、すべて大容量のものを業務スーパーで一括買いするようにしました。

 

 砂糖を大きなガラス瓶に入れ替える時、今までとは違う感触に驚きました。それまで甘い感覚として連想していたのは、ハチミツのトロトロ、バタークッキーのしっとり感、ナッツタルトのザクザクなどでした。そこに、袋を開けたばかりの白砂糖のふわふわが加わりました。今までのサラサラしたコーヒーシュガーに代わって、ふわふわの砂糖をスプーンにすくい、コーヒーに入れます。マグカップの底に沈むよりも早く、飲み物に接する表面から溶ける様子には、やわらかく混ざり合う音が聞こえてくるような気分にもなります。

 

 

ブドウ糖研究がしたい

 近頃、私はブドウ糖にも興味を持っています。ブドウ糖は、水あめよりもサラっとしていて、そのまま食べると濃密な刺激が口から鼻へ直線的に届きます。とても使いやすくて、アーモンドにかけてフロランタン風にしたり、パンに塗ったりするのも相性が良いです。アーモンドを煮だしたお湯に、ブドウ糖とスキムミルクを入れるとアーモンドミルク風ドリンクも作れます。

 

 これから試したいのは、いろんな企業のブドウ糖を試してみることです。メーカーごとに微妙に粘度や甘さが違って、味や食感も違ってきます。いろんなメーカーのブドウ糖の味比べもしたいと思っているのですが、1本1Lのものが多くてなかなか減らないので、これから半年以上はかかりそうです。

 

 今もいろんな原材料を試している最中です。節約をするのは、楽しく面白い発見をしながらやるのが続けるコツかなと感じる今日この頃でした。

 

 

 

【エッセイ】(第12回)原画のチカラ。絵を飾ると良いことあるよ~絵が心の窓になる~

ジャンルフリーで自由に書いて投稿しているエッセイです。

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1.絵がある日常

 私はたまに個展に行く。初めて作家さんの個展を観に行ったのは二十歳頃だったと思う。建物の1階のアトリエはガラス張りで、外から内側が見えるようになっていた。中は奥に細長い間取りで、太陽の光が絵に直接当たらないようになっている。ドアには、昔ながらの喫茶店にある小鈴が付いていて、カラカランと鳴ったことを覚えている。見た目は落ち着いたふりをしていても、内心はドキドキして緊張していた。意外と受付の人は気にする様子もなくて、ほかのお客さんも思い思いのペースで壁に掛けられた絵を眺めていた。あっという間に私は新しい世界に迎え入れられた。

 

 それから十数年が経ち、今では、絵は私の生活の一部になっている。気になった作家さんの個展には多少遠くても観に行き、部屋には各地でお迎えした絵が並んでいる。これまでの絵との関係を振り返ってみると、私はもっぱら見る専門で、とても不思議な距離感で絵とかかわってきた。絵で人生が180度丸々変わったことは無いし、自分の価値観を一気に塗り替えられたことも無かった。ただ、日常にすこしずつ溶け込むように、絵の存在が当たり前になった。絵が生活の一部になり、私の感性にも影響を与えてきたように思う。

 

 

 

2.私が買いたい絵

 手書きの絵は一生ものだ。大事な絵はこの先ずっと飾っていたい。思い返せば、私が購入を決めた絵には2種類あって、ひとつは気分が沈んでいる時に元気をくれると感じた絵だった。この軸で選んだ絵は、いまのところ100%私にベストマッチした絵でいてくれている。ふたつめの基準はワクワクした好奇心を刺激してくれる絵だ。こちらは技法やモチーフがとにかく良くて、いつまでも眺めていられる絵が多い。自分の状態があたりまえに日々変わるからこそ、変わらない絵があることにホッとした気持ちになれる。

 

 絵の中には肌ざわりを感じたり、音が聞こえてくるような作品があって、そんな絵に出会えたときには、ずっとその場所に居たいような感覚になる。例えるなら、春の原っぱで優しいそよ風を受けて目を閉じる時のような安心感、ペットが昼寝をしている隣で甘いカスタードクリームを味わう時のような充実感。そういう絵の原画はたいてい6万円以上するから「どっひゃー!」という感じなのだけれど、スマホのティスプレイ越しでは伝えきれない、生で原画を見るからこそ体感できる質感や空気感は一級の贅沢体験だと思う。

 

 個展に行く日は、なんでもない日が特別な1日に変わる。手帳の黒文字が輝いて見える。オリジナルのポストカードや卓上カレンダーを記念のお土産にするのも楽しくて、電車の中でも鞄に入れたグッズのことを思うと自然とウキウキとした気持ちが湧き上がり、体が2cmくらい浮いているみたいにふわふわした。

 

 

 

 

3.心に窓をつくる仕事

 手書きの絵からは「大事にされた時間の密度」を確かに感じる。この目に見えないパワーは、ポストカードや複製原画と比べると、原画が一番強い。「花・鳥・クッキー・家具・人物」あるいは「水彩・油彩・アクリルガッシュ」と、どれほどモチーフや素材の要素を並べたとしても、多分この時間の密度にはたどり着けない。何が描かれているかでなく、なぜ描いたかに思いを寄せるとき、絵から作家さんの歴史や思想、姿が、ゆらめくように立ち現れる。作品を完成まで仕上げたタフさや、対象を大事にし続けた時間の密度が力の源泉になって、目には見えないエネルギーを発している。

 

 そして、心の世界では、絵の向こう側にあるのは壁ではなく、どこまでも自由な世界が広がっている。例えば花の絵は花を大事に育てた時間に、動物の絵はペットと一緒に暮らした時間につながっている。作家さんが描く絵は、見る人の心に窓を創ってくれる。心の窓の向こう側には過去も未来もひっくるめて、誰かや何かを大事にしてきた世界や、これから大事にしようと想像する世界など、いくつもの世界が同時に重なり合って存在している。自分と他者の、また、過去と未来の重なりを何度も感じ、「通じ合う」という言葉はこうした瞬間のためにあるのだと思った。

 

 

 

4.今は苦しくない幸せを肯定する

 少しだけ私の話をすると、私は人に尽くし過ぎる傾向があった。そのせいで、利用されたり、仕事過多になり過ぎた時期がある。大事にされていない。どこか別の世界に行けたらなら……世界が変わって見えたなら……そんな風に感じて気持ちが弱ったときには、お気に入りの絵を見ると心が回復した。嬉しさを感じとる感覚がどこからかふつふつと湧いてきた。誰かが時間をかけて、大事にしている世界があるという事実が本当に力強かった。

 

 絵を見る自分の姿は日々変わる。苦しい時に絵を見ていた自分もいる。穏やかな心で絵を見ている自分もいる。絵の前に立つと、1つ1つの場面の記憶が、半透明のホログラムのように重ねられていて、絵をお迎えしてからの過去の私自身を全部ひっくるめてみている感覚になる。煮詰まった思考のループからは、スッと別の世界へ引き出してくれる。大事にしたいのは何?と問いかける地点に立ち戻らせてくれる。

 

 私には、今は苦しくないと確かめながら穏やかに過ごす時間を、幸せと感じる感性がある。作家さんの絵は、その感性を肯定してくれているような気持ちになる。絵の前にいつでも戻ってくることができる、ここが何者にも壊されることがない私の安全基地。世界に用意された私のための特等席。心を回復させる場所。好きな世界がこれからも増えていくと思うとわくわくする。生き進めるのも悪くないと肯定できるのは、とても良い感じな気がする。

 

 二十歳の頃に初めてアトリエに入った時のドキドキを乗り越えてよかったと思う。気恥ずかしいし、入るのをためらっていた絵の世界は、すんなりと私を迎え入れてくれた。こんなにも穏やかな世界が誰にでも開かれていることを知った。

 

 絵は心にひとつの窓を創ってくれる。その窓は、過去も未来もひっくるめて、誰かや何かを大事にしている穏やかな日常を見せてくれる。心の窓の向こう側に大事な世界が増えるのを想像するとわくわくする。生き進めるのも悪くない。絵が見せてくれる穏やかな日常をずっと大事にし続けていたい。

 

 

 

【月曜日のエッセイ】第11回 加害者の攻撃性に「パーソナリティ」と名前をつけよう。心を癒やすために他人をいじめる心理。

月曜日に投稿しているエッセイです。ジャンルフリーで最近の気になるトピックをテーマにしています。

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イジメやパワハラは悪いこと?」と聞かれれば「その通り」と誰でも答える。いじめパワハラ殺人事件がニュースで流れるたびに、何度もくり返してその答え合わせをしてきた。けれども加害者は減らない。人が死なないとニュースにさえならない。いじめもパワハラも「バレなければセーフ」で、悔しいけれどこれは事実だ。

 

イジメやパワハラを悪いと言うだけでは、加害が減らないことに、みんながうすうす気が付き始めた。良い悪いのジャッジから一歩先へ進んで加害の本質にたどり着くには、「パーソナリティ障害」という疾患を知ることが大きなヒントになる。

 

パーソナリティ障害」を知れば人を見る目が育つ。そして、誰かを攻撃したくてウズウズしている加害者を見抜くことができる。この事前知識を活かして、転職や副業などで新しい人間関係をつくる時に、今までよりも注意して人を観察してみよう。仕事相手だけでなく、家族やクラスメイト、ママ友グループや後輩先輩上司など、良い人のフリをして集団に紛れ込んでいる有毒な人がいないかをチェックしよう。

 

 

1.なぜ、パーソナリティ障害を知る必要があるのか?

最初に、パーソナリティ障害の人すべてが悪者だとは思わないで欲しい。控えめに生活をして苦しんでいる人もいれば、自分のパーソナリティと向き合って改善の努力している人もいるし、社会に適応したパーソナリティ・スタイルを作り上げて上手くハマっている人もいる。病名を悪いレッテルとして使わずに、中身を丁寧に見て欲しい。

 

今日は、人を攻撃したくてウズウズ・ムラムラする欲望を抑えきれない人達の存在を知ってほしい。いじめやハラスメントの加害者に当てはまる攻撃的なパーソナリティタイプであり、これを知ることで、あなたやあなたの大事な人の心身の健康を守ることができる。

 

日本で長く研究されてきた「いじめの理論」をシンプルに解説しながら、加害者や傍観者だけでなく、被害を受けている被害者でさえ「いじめやパワハラを無くしたくない、耐えたい」と思い込んでしまうメカニズムを解説したい。そして、そう信じるように仕向ける加害者の内側にある支配欲に目を向けて欲しい。

 

もしもあなた自身や、身近な大事な人が次の気質をもっているなら、パーソナリティ障害の知識は、きっとあなた達を不必要な消耗から守ってくれる。

  • まともで規範意識があり
  • あまり波風を立てたくなく
  • 相手を喜ばせたい気持ちが強く
  • 頼まれたら断れない性格で
  • 耐え忍ぶことで将来良いことがあると信じている

こうした社会一般的には良いとされる気質は、攻撃的で支配的なパーソナリティの持ち主にとっては「つけこみやすいカモだった!という自覚をもつことが、心穏やかな生活を送るための一歩になるはずだ。

 

 

2.いじめやパワハラで心が癒され、成長を感じている人たち

いじめやパワハラの加害者は、「これは必要悪で、まっとうな行動だ」とゆがんだ正義感をもっていることが多い。そこには「弱肉強食の強さ信仰」とも言える支配的な人間関係の場が作られている。

 

いじめには「加害者・被害者・傍観者(観衆)」の役割があることが分かっている。そして、それぞれに「強さ」を競い合っているという考え方がある。

 

分かりやすいセリフを付けて解説すると、次のようになる。

 

 

被害者のままでいたい被害者

被害者「確かに自分はいじめられているかもしれないけれど、耐え忍ぶ強さを示せる。耐えている限りは負けていない。むしろ、このいじめは強さを周りのみんなにアピールするチャンスだ。助けを求めるのは弱さを認めることだ。誰の手も借りず、強さを示すために耐え続けたい!

いじめの構造,加害者と被害者の強さの競い合い

「強さ」を競い合う姿は、対等に見える

いじめやパワハラを耐えきった被害者には、「攻撃する/耐える」というゆがんだ関係性の図式がトラウマ体験として頭の中に刻み込まれる。そしてその図式を使って、被害者が次の加害者に成長するという悲劇のストーリーも説明できる。

 

組織の中で、パワハラやいびりの連鎖が起こっている様子をイメージして欲しい。元・被害者は弱く無力でみじめで、耐える強さをアピールすることしかできず、逃げられない環境の中で劣等感と恥を植え付けられて傷ついた。被害者にとってはその環境が人生のすべてだった。

 

壊れそうな心を救う唯一の方法は、理不尽な仕打ちに耐え続けて組織に残り続けて、いじめやパワハラをコントロールできる強い加害者へと成長することだった。

 

 

加害者たちは、傷ついた心を癒やしている

加害者「わたしは無力でみじめだった。でも今は違う。私は人をいじめられるぐらい強くなった。人をいじめれば、こんなにも昔の心の傷が癒やされ満たされる。ああ……ようやくみじめでなくなった……。いじめられっ子に感謝している。いじめられてくれて、ありがとう!」

いじめの構造,被害者が加害者になる時

「耐えた」被害者が、「攻撃する」加害者に変わる

加害者にまで成長(?)した元被害者は、刻み込まれた「攻撃する/耐える」というトラウマ体験の図式を、今度はいじめる側になって再現しようとする。そこには過去の弱さの切り捨てと、強さへの執着がある。

 

被害を打ち明けて相談できた人は、この図式から抜け出すことができる。

 

いじめやパワハラの加害がなかなか減らないのは、加害者の攻撃性の元になった被害体験のケアがとても難しいからだ。特に、攻撃的なパーソナリティを持つ人の治療は、心理のプロでも難しい部類に入ると言われている。

 

キレ続ける人や、嫌がらせを続ける人の根本にある被害感情を、一般人の私たちがなんとかすることなんてとても無理だ。強さへの欲望を手放さない加害者は、力でねじ伏せる弱い相手を探し続ける。これは、後の「攻撃的なパーソナリティを持つ人からは、一般人は全力で離れよう!」という話につながる。

 

 

傍観者(観衆)は成長を感じて満足している

傍観者(観衆)「いじめられている人を見ると、どこかホッとする。あの人よりはうまく立ち回れているし、あの人がいじめられているうちは安全だ。わたしは、昔は無力でみじめな時もあったけれど今は違う。私は強く成長できてる……いじめられてくれる人のおかげで、わたしは成長を感じられる」

いじめの構造,傍観者と観衆の心理

傍観者になることで、成長を感じられる



傍観者にとって、「加害者・被害者・傍観者(観衆)」から成るいじめの関係は、心を癒やす装置としてはたらいている。「上手く立ち回れていること」自体が、この上なく満足感を与えてくれる。

 

いじめの被害の大きさは、傍観者(観衆)が加害者と被害者のどちらに付くかで変わる。加害者はそのことを肌感覚で察知しているから、傍観者(観衆)を自分の勢力に引き入れるために、色々な方法を使う。

 

加害者のパーソナリティに話を戻すと、こうした自分の勢力への引き込みも、攻撃的なパーソナリティをもつ人の特徴だ。暴言暴力嫌がらせを使ったり、証拠に残りにくい小さな嘘を平気でついたりして、ターゲットの印象が悪くなるように行動する。加害者の話を素直に信じて操られた人たちは、強い力を持った「名前を出してはいけない加害者」に従い、弱い立場にいるふつうの人を複数人で叩く。

 

 

3.加害者をパーソナリティのフィルターで観察しよう

いじめパワハラ殺人事件は、攻撃的なパーソナリティを持ち、湧きあがるムラムラとした欲望を抑えきれない加害者の「誰かを攻撃したい、支配したい、思い通りに人を操りたい」という欲望から始まっている。つまり、相手はだれでもいい。

 

誰かをイジメたい人がいるから、イジメが起こる。

暴言暴力で相手を支配したい人がいるから、パワハラやセクハラが起こる。

陰湿に死なない程度に嫌がらせをするのが楽しいから、モラハラ(=モラルハラスメント)が起こる。

 

今こそ、加害者に共通してみられる攻撃性に、「パーソナリティ」という名前を付けて注目しよう。

 

いじめやハラスメントの加害者が、のらりくらりと逃げてきたのは「DV・毒親・フレネミー・いじめ・ハラスメント」など、関係性によって加害者の呼び方がいろいろと変わってしまい、加害者を追いきれなかったからだ。被害者が逃げるか死ぬかで関係性が解消されてしまった後には、加害者をどう呼べば良いか分からなかったからだ。

 

被害者が亡くなっても、

加害者は消えていない。

攻撃欲と支配欲は消えていない。

 

私が注意を呼びかけたい理由はここにある。過剰に攻撃的なパーソナリティをもつ人達は移動していて、関係性を変えてどこにでも現れる可能性がある。家族、親せき、夫婦や親子、部活の先輩後輩、クラスメイト、近所のおじさんおばさん、会社の同僚上司、ママ友グループと、どの場所でも、まともな良い人間のフリをして、バレなければセーフと考えて、相手が死なない程度のギリギリを攻める行動を楽しんでいる人がいる。

 

有毒な人が世界に存在していることをちゃんと認めて、その特徴を知れば、密な関係になるのを避けられる。むしろ徹底的に避けて健康な生活を送ることができる。

 

 

4.注意!!善良に生きているだけでは攻撃を防げない

攻撃的なパーソナリティの人を早い段階で見抜いたら、絶対に勝負を挑まずに、先手を打って離れることが必要だ。そのためにパーソナリティ障害の知識は役に立つ。このブログで、ここまでハッキリと病名を出して注意を促すのは珍しいが、本当に過剰なくらいに注意しないと、あなた自身や、あなたの大事な人の心身の健康を守ることはできない、と気づいて欲しいからだ。

 

善良でまともに生きていればターゲットにされない」と考えるのも残念ながら間違いで、誰もが攻撃的なパーソナリティを持つ加害者のターゲットになりえる。加害者の欲望はじわじわと集団に伝染していじめの構造を作り出す。「一方的な嫌がらせ」は「仲が悪い」とマイルドに言い換えられ、悪い噂や小さな嘘を広める戦略は「社内政治」と容認される。

  • ふつうの人を悪人に仕立て上げることが楽しい。
  • 健康な人を精神疾患に追い込むことが楽しい。
  • 悪い噂を広めることがこの上なく楽しい。
  • 人同士の対立が、なによりの娯楽

 

攻撃的なパーソナリティの特徴を知れば知るほど、絶対に関わっていはいけない人間が身近にいるとハッキリと分かる。最近では副業や再就職をする人が増えているから、加害者に出会う確率は格段に高まっている。ついうっかり、攻撃的なパーソナリティの人たちとお近づきになってしまうことは全力で避けないといけない。恐怖や威圧やうわさ話で人の心理を操作したくてウズウズしている加害者が隠れている集団に早めに気づいて、離れて、健康を守らないといけない。

 

早めに見抜いて距離をとったり、さっさと集団を抜け出すことは、誰にでも習得できる技術だ。もう一度言う。加害者から距離をとってさっさと離れることは、誰にでも習得できる技術だ。転職や副業をする人だけでなく、転勤や配置換えがある可能性がある人はみんな、本当にみんな、今からでも、何歳からでも遅くないから、パーソナリティのタイプを知って、「人を攻撃したくてウズウズしている人」を早めに見抜くセンスを磨こう。

 

加害者のパーソナリティを知ってみよう。

 

 

 

 

【月曜日のエッセイ】第10回 のどに心が現われる。触れて、離れて、思い出す。

月曜日に投稿しているエッセイです。

 

フルーツジュース、炭酸飲料、お気に入りのコーヒー。中身そのものよりも、器があることが、心を安定させてくれるのかもしれません。「私のための器」と「プロセスを蘇らせようとする心」をテーマに、心の拠り所を考えます。

 

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1.人を透明にする仕事

人を透明にする仕事がある。

 

私が私でなくてもいいような、結果が決まっていて、どこかには代わりがいて、仕事ってそういうものだよね、とごまかしながら、とりわけて思い出されることもなく、来てくれるなら相手が誰でもいいような仕事をしていると、体が透明になる。

 

目の前のことに対処しているうちに、混乱して、訳わからない世界にいるような気がしてくる。同じ電車に乗り合わせている名前も知らない人達。その全員に、それぞれの人生があって、家があって、両手両足がついていて、明日のことを考えていて、おびただしい人の数に、なんだか圧倒されるような気持ちになる。

 

混乱した世界で、いつもの刺激が欲しくなる。

 

 

2.コンビニは楽しい

コンビニって色があるから楽しい。

 

冷たいペットボトルや熱い紙コップに触れると、透明になりかけている私が輪郭を取り戻したような気分になる。駅のくすんだコンクリートを見ているよりも心が晴れる。

 

フルーツジュース、レモネード、ホットコーヒー。

 

選んで手に取ると、私がぼうっと世界に現われる気がする。

お金を払うと、私がもう少しだけ世界に現われる気がする。

開けて飲んだ瞬間、私はハッキリと世界に現れる。

 

 

いつもの味、重さ、さわり心地、香り、のどごし。まだ明るい空が広がる。圧倒されそうな世界で、私の輪郭といつもの感覚が戻ってくる。

 

のどが潤うと「ああ、何かがすり減っていたな」と思うし、「頑張ってるよね」と自分を褒めたくなる。

 

 

3.小さな器は愛情だ

水でもコーヒーでも、私のための器がある、ただその事が嬉しいと思う。

 

小さな器ってきっと愛情だ。他の人が淹れてくれたコーヒーはいつもより美味しいし、ファミレスのお皿に乗った料理は特別な気持ちになる。

 

べつに機械が淹れたコーヒーでも、レンジでチンしたポテトフライでもいいけれど、キレイに包装されていたり、器がデザインされていたりすると気分が上がる。「あなたのために用意したよ」と言ってくれているみたいで、元気が出てくる

 

自由にできる器があるって楽しい。

 

 

 

4.大きな器は安心感をくれる

もっと大きな器は、私たちを安心させてくれる。デカくて包み込んでくれる器。

 

いい車、いい家、肩書き、自分のイメージ。多くの人が見てくる私の器。ちょっとやそっとで崩れないやつ。

 

大きな器を持つことって気分が良い。人に見せつけるともっと気分がいい。これが私なんだと強さをアピールできて、世界にハッキリとした輪郭線を引いてくれる。

 

ちょっと気になるのは、手のひらサイズの器に比べて、大きな器や見えない器を手放すのはけっこう大変だ。

 

住んでいる家とか、入っている部活動とか、働いている会社の肩書きとか、「イコール私」になっている器を手放すのは、それが大きくて、長く持ち続けてきて、手に入れるのに苦労したものほど、手放したくない。

 

 

5.器を手放す練習をする

奪われるのも、壊れるのも、汚されるのも不安。

 

辞めると"はずれる"し、自分が崩壊する気持ちになる。輪郭線が失われて透明になる。くすんだコンクリートと同化する存在になってしまう。

 

この感情って、結構あぶないよ!

 

「大きな器=私そのもの」だと、時間が経つと壊れて朽ちて、世界から色が褪せていく。風景と同化して、忘れ去られて透明になる。手に入れた車、家、肩書き、年収、部活会社主義国家。包まれて、含まれるほど透明になる。名前さえ呼ばれなくなる。

 

少しずつ何かをやめる練習や、離れる練習が必要かもしれない。手放す練習をして、揺れ動く感情に慣れていく。離れたときの嬉しさや、悔しさや、ホッとする気持ちを感じとる練習をする。

 

仕事帰りに飲むコーヒーは、きっと器を手放す練習だ。

 

 

 

6.姿かたちは変化する

器はいつか消え去るし、中身をため込み続けることはできない。すべてのものが変化を続けている。

 

水は止まっているように見えて、水素と酸素の周りに、小さな電子が雲のように広がりグルグルと回っている。

 

桜のゴツゴツとした幹の内側では、水分が不思議なスピードで駆け巡る。

 

自動車の車体は、熱を与えて生み出されて、役目を終えればまたドロドロに溶かされる。

 

課長や係長といった役職の数は、増やすことも減らすこともできる。

 

何億何兆もの変化の組み合わせから一つが形として現れて、私に触れて何かを残す。パートナーが淹れてくれたコーヒーだって、何億何兆分の一の巡りあわせで目の前に現れている……ちょっと壮大すぎる?

 

ともかく、どんな姿かたちの存在も、いつかは変化し、いつか手放すことを意識するから、限られた時間の中で大事にできる。

 

 

7.プロセスを思い出す力

手放す練習をすればするほど、心穏やかに過ごせるような気がする。

 

それはきっと、何かを手放した分だけ思い出す力がつくからだと思う。手放すから余裕が生まれて、未来にちゃんと期待ができる。

 

飲みたい、食べたい、息を吸う、息を吐く、声を生み出す。その一連のプロセスに、機械ではない人の心が現れている。のどを動かすプロセスが、人と人とをつなげる。

 

生み出す声が無数の泡のように、肌や鼓膜に触れて感触を残して消えてゆく。残した文字が、頭の中で音や声になり、やがて消え去る。そうして、通り過ぎた泡一粒の感触を、もう一度世界で感じたいと思えるところに人らしさがある。

 

そして、人に過去を思い出す力があるからこそ、触れた泡の一粒に、意味があったことを感じられる。

 

 

8.思い出される良い仕事

仕事で商品をリピートしてくれたり、「またお願いね」と言ってくれたりする人がいると嬉しいのは、誰かが自分を思い出すことを実感できるからだと思う。

 

思い出して、名前を呼んでくれる人の存在が、世界で透明になりそうな私たちに輪郭と色を与えてくれる。

 

ゆったりとテーブルに向かい合って座って、好きな飲み物の入った器にそれぞれに触れて、飲んだり喋ったりして、あと片づけをして、いつかそれが穏やかな時間だったと思い出す。

 

人と時間を過ごして、離れた経験を重ねた数だけ、思い出すことも、思い出さないことも、きっと上手にできるようになる。

 

一匙の砂糖を入れたコーヒーのように、通り過ぎるものたちの思い出が、今日一日を、また、豊かにしてくれている。

 

 

 

【月曜日のエッセイ】第9回 SNSの怒りとトラウマ。自分と相手の感情に線を引く

シリーズ「月曜日のエッセイ」第9回です。今日のテーマはSNSで怒る人の心理とトラウマです。

 

怒っている人の姿に「気づいて欲しかった」という悲痛な叫びがあるかもしれないと感じたことをキッカケに書きました。

 

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SNSでいつも誰かが怒ってるよね。

 

悲痛で叫ぶようなツイートが数万のいいねを集めてバズる。それに引き寄せられて、「私も昔~」「その通り!」「許せない!」と書いている。

 

不思議なくらいみんな怒ってる。

 

強い不満はたしかに社会を動かすことがある。けれども、そういう強い感情が押し流してしまう気持ちだってある。

 

たとえば「嫌な記憶を忘れかけていたのに、よくも思い出させてくれたなコノヤロー」という投稿者への不満。マイノリティの発信には「ごめん、気づかなかった」と無関心だったことのお詫びや、「苦しい状況をどう乗り越えるのか、お手並み拝見」という好奇心

 

純粋に「負けるな頑張れ!」と励ます応援サポートもある。「わたしの時は我慢するしか無かったのにずるい!」という嫉妬だってある。

 

怒ると全部がいっしょくたになる。怒り「で」共感しようとすると、ちょっとずつズレていく気がする。怒りの原因が読んだ人のトラウマにあるのなら、お互いのためにもなおさら、自分と相手の感情の線引きが大事になる。

 

線引きをすれば、「悪い風習は自分たちの代で終わらせる」とか、「の世代からされて嫌だったことを、次の世代にしないようにしよう」と行動できる。言葉の裏には加害者への怒りがある。でもずっと静かな怒りだ。それは周りへの笑顔として現すこともできる。社会を変えるのはこうした静かな怒りだと思う。

 

トラウマはきっと癒える。毎朝食パンを食べたり、植木鉢に水をやったり、掃除機をかけたり、自転車に乗ったりして日常を過ごすうちに、思い出すことに慣れていく。漢方薬や日にち薬もきっと効く。心が弱まった時期には人の助けを借りて、やり過ごして、しぶとく生きる手もある。

 

もし周りに「気づいてあげられなくてごめんね」と言ってくれそうな人がいるなら、その人との縁は本当に長く大事にするべきだと思う。

 

どれだけ悲惨なニュースが流れてきても、自分と他人の感情は線引きをしてもいい。何かに怒りたくなったなら、自分を大事にしてくれる人たちと一緒にアイスクリームを食べる時間をつくるといいかもしれない。そのあとにエネルギーがあれば、「負けるな、がんばれ!」という意味で、いいねを1つ押せばいい。